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8. 「交渉」の部屋

聡子はルイーズと別れ、雑貨街のブッソーラ・ストリートまで足を伸ばした。

通りにはおしゃれなビーズの手芸品やら雑貨を売る店が連なっていた。

店に入って買い物をしようかとも思った。が、さきほどのルイーズの言葉が頭の中をうろついて、とてもそんな気分にならなかった。

<先生は聡子さんに期待している。いずれ交渉の部屋に来て欲しいと思っている>

離れの2棟には、海外からの要人を迎え入れていた。

有名なファッション雑誌でみかけるようなモデルもサロンを訪れたが、本館には立ち寄らず直接そこへ向かった。そこに数日から2,3カ月ほど滞在する者もいた。

もっとも、ルイーズ達が2階で施した整形の調整を行う必要もあった。肌の腫れの後遺症の心配があった。そのため、しばらくそこで静養する必要もあったのだろう。

離れの裏庭には日差しをたたえた大きなプールがあった。そこから若い女性たちの水浴びの音やはしゃぎ声がよく聞こえてきた。

いつだったか。映画でよく見かける有名なハリウッド女優とその恋人らしき人物がお忍びで来ていたこともあった。もちろんそのことは極秘扱いでサロンでは箝口令が敷かれた。

またある時は、香港の財閥の令嬢が数人の屈強な男たちを従え、数日、そこを占拠していたこともあった。

とくに頻繁に出入りしていたのは地元の政治家のマダム達だ。よく、今里との談笑が外まで漏れてきた。

そこは、自分とは住む世界の違う人々の集まる特別な場所だ、と聡子は思っていた。

私に一体なにを期待しているのだろう。そんな人達を相手に交渉などという大それたことは私にはできない。聡子は気分が重かった。


         ☆☆☆


通りを歩いているとヤシの木々の陰が落ちた小さなカフェがあった。

昼下がり、人々がコピを飲んで一服していた。

聡子は店に入ると、歩道沿いの木陰のテーブルに席をとった。

中々憂鬱が晴れなかった。

どうしても今里が整形の費用を客と交渉でやりあっている姿が思い浮かばない。

むしろそうしたことに無頓着な人間のようにも見える。

もっとも一代でこれだけのサロンを築きあげたのだ。それなりの修羅場をかいくぐってきたことは容易に想像がつく。

今里のサロンは高級サロンとしてすでに世界的にも知られている。確かに、整形の費用も他のサロンより割高だが、それだけ施術は入念に行っている。

2階の近代の部屋で、外科的処置を行った後、1階の伝統の部屋で、じっくり肉体の調整に時間をかけている。こんなサロンはどこにもないだろう。 確かに、施術の料金が当初の予定よりかさむこともある。だからといって、それで離れの別館に軟禁までして交渉するというのか?


しかし、腑に落ちない。

すでにサロンは今里の名声で1、2年先まで予約でびっしり埋まっている。なのに、なぜ、そこまで強欲になる必要がある?それとも、今里の施術を希望する者に、すでに予約が詰まっていると断る交渉なのか?あるいは、今里は整形を断ることもあるらしいが、代わりに私が、整形は必要ないと諭せってことかしら?


いくら考えても堂々めぐりだった。聡子は考えるのをやめにした。

ふと、通りにぼんやり目を這わせ、道路に落ちたヤシの木の長い影をみた。

なんだろう。ヤシの木が風もないに揺れているような気がした。

聡子はヤシの木に目を凝らした。

ヤシの木が、白っぽい光に覆われている。明らかに日の光ではない。やわらかい乳白色のような優しい光の色だ。

まさか、かげろうがそんな所に立ち上るのだろうか。

すると、今度は、金色がかった光がヤシの葉の周囲で揺れているのが分かった。

あわてて聡子は自分の指先に目を移した。指先からうっすらと白い光のようなものが帯状になって出ている。

これは・・もしかして・・これがオーラなの。

さきほどの憂鬱が一気に吹き飛んだ。聡子は何度もヤシの木と指先に目を這わせた。

そして、ゆっくり周囲を見渡した。

淡いオレンジやブルーで外観をまとった人々がそこにいる。

すぐ傍の40代くらいのメガネをかけた小太りの浅黒い顔の男は肩が凝るのか、しきりに首を回すようなしぐさをしている。その肩のあたりからは灰色のオーラが帯状に出ている。

オーラ視ができるようになったのだろうか。聡子はサトウキビのジュースに口を付けながら胸が高鳴った。

一刻も早く、このことを淑美に知らせたかった。

隣のテーブルでは、現地の口髭を蓄えた痩せた50代の男とその婦人らしき太った女性が小声で何か話込んでいる。女性は男性の話しにいちいちうなずきながら手元の紙にペンを走らせていた。

耳をすますと、ラマダンという言葉が聞こえてきた。

ラマダンはイスラム暦の9月に1カ月間行われる断食のことだ。イスラム教徒は幼児や病人、妊婦らを除き、この時期に一斉に断食を行う。女性はラマダンの支度のことを書き留めているのであろう。

聡子は日本で時々、2、3日の絶食をしたことがあった。

絶食で感覚が研ぎ澄まされることはたびたび経験していた。

この機に断食を徹底的にやってみようかしら。オーラ視の能力に磨きがかかるかも知れないと思った。


         ☆☆☆


さすがに仕事をしながらの断食となると辛い。

ラマダンは夜明けから日没までの間は何も食べないが、それ以外の時は食べ物を口にしていい。

聡子は、日々の仕事に差し障りのないよう、野菜ジュースを飲むだけの断食にし、それをラマダンと同じ1カ月行うことにした。

断食に入ると、あのヤシの木を覆うオーラを見た時の感覚はさらに研ぎ澄まされていった。

40代の女性経営者をマッサージしている時、女性の首筋あたりに細いグレーの帯状のオーラが見えた。そこに光をイメージで送るとオーラが次第に明るい色に変わっていく。

施術が終わると女性から「随分身体が楽になった」と感謝された。

ヒーリングの力が聡子に芽生えていた。

聡子はそのヒーリング能力にさらに磨きをかけた。

イメージで面白いようにオーラの色が変わっていく。聡子は夢中になった。

客から感謝され、どうしても聡子に施術を、と望む者が後を絶たなかった。


日々強力になっていく聡子のヒーリングの力に淑美は驚いた。

「もうじき、聡子さんも交渉をやるようになるわ」

これまで度々聞かされてきた「交渉」という言葉。その言葉には抵抗を覚えたが、それでも今里への何か恩返しになるのなら、と聡子は思った。

さすがに、野菜ジュースだけで2週間も過ごすと、体力は落ち、施術中もよくフラついた。早朝の気功で気を補給し、なんとか持ちこたえた。

断食を始めて3週間ほど経った頃、聡子は施術中に奇妙なものを見るようになった。

もちろんオーラも見えるが、それとは別に、目の前にホログラムのように、人々が映しだされて見えるのだ。

マッサージの施術をしているのが30前のまだ若い女性なのに、髭をたくわえ中世の鎧をまとった猛々しい軍人がそこにいる。

軍人は雄叫びをあげ、村に侵略し村人を残らず惨殺し村を焼き尽くし去って行った。

あるいは、きらびやかな宮殿の中で、優雅にダンスを楽しむ男女の姿も見た。

長期の断食で、意識も朦朧としている。

幻覚に違いない、と聡子は思った。が、施術中に何度もそれは、あざやかな色彩を帯びた立体画となり眼前に浮かび上がった。

さらにそこから鮮明な音や言葉まで聞こえてくる。

それを振り切ろうにも、間断無く、それは聡子の目の前で流れ行く。

体は常に浮遊しているような感じだった。

時に、何かに掴まれ身体が硬直するような感覚も走った。


         ☆☆☆


聡子にそうしたサイキックな能力が芽生え始めたある日のことだった。

淑美から「先生が呼んでるわ」と声をかけられた。

用件は分かっている。交渉の部屋に来てほしい、ということなのだろう。

確か離れには、ミスコンに出場するという女性が2,3日前にアメリカから来て滞在しているはずだ。


夕暮れ時だった。聡子は離れからの薄明かりが漏れる庭先で大きく深呼吸した。

淑美が玄関先で、こちらに、と聡子にめくばせした。

聡子は、淑美と連れ立って「交渉の部屋」と呼ばれている棟に足を踏み入れた。

中は質素な外観と違い、天井にはゴージャスなシャンデリアがまばゆい光を放ち、部屋を妖艶に色付けていた。まるで美術館にでも訪れたかのようだった。彫刻やら絵画が品よく配置されていた。ラピスラズリのマーライオンの像が訪問者を歓迎するかのように微笑んでいた。

その部屋の隅の大きな椅子にぐったりと眠るようにもたれかかっている今里がいた。

「淑美さん、ありがとう。今日まで澤木さんを導いてくださって」

椅子からゆっくり立ち上がると、今里は2人を迎え入れた。

「姉妹ですから。当然です」

淑美は過去世からの約束事をようやく果たしたかのような笑みを浮かべた。

「え、姉妹・・」
「前世でね。澤木さんは淑美のお姉さんでした。今は、淑美さんのほうが年が上ですが」

確かに、淑美とはお互い話さなくとも心の内が理解し合えるようなところがある。聡子はあらためて再会をなつかしむような目で淑美を見た。

「さて、交渉の続きです。いらっしゃい」と今里は、2人を隣の部屋へ来るよう手招きした。

その部屋に足を踏み入れた時、聡子はなんともいえない嫌悪感を覚えた。

部屋には重苦しい空気が漂っていた。忌まわしい邪気のようなものが澱のように淀み、辺りを這っていた。部屋の中はとても静謐だ。にもかかわらず、時折それを破るようなざわめきが波のように耳の芯を貫く。息苦しい。胸が張り裂けそうだ。一刻も早くこの部屋から出ていきたい。そんな感覚に聡子は襲われた。

隣で淑美も顔をしかめ、胸のあたりに手を当てていた。今里は平然とした顔でマントラを小声で唱え、まるで結界でも張るかのように、部屋の隅々に目を配っていた。




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