4. 澤木聡子
澤木聡子の携帯の着信の振動音が鳴ったのは午後10時を少し回った頃だった。
最初、聡子は隣の友人の花村みずきのカラオケのエコーでそれがよく聞き取れなかった。
が、仮りにそれが自分の携帯であったとしても、いちいちバックから取り出し、確かめるのも面倒くさかった。
ちょうどサビのいい感じのところで、酔いが回っているのだ。しばらくそれに身を委ねていたかった。
聡子は大学時代の友人と久しぶりに会い、三宮のカラオケ店で酔いしれた。
「香花ちゃん、どうしたの、まだ飲みが足りないわよ」
聡子はそう言って、隣でソファに斜めにもたれかかっている泉田香花の肩を揺すった。
「今、誰かの携帯がブルブルしてなかった」
泉田はゆっくり体を起こしながら小さなあくびをもらした。
「そんなのどうでもいいじゃない、さあ、もっと飲もうよ、歌って歌って」
聡子は香花にマイクを持たせて手拍子で促した。
「もう、サトちゃんたら、しょうがないんだから」
泉田はゆっくり身を起こすと、おもむろにマイクを取り、お気に入りの歌を選曲し、情感たっぷりに歌い始めた。
「サトちゃんのところはうまくいってるの」
花村みづきが聡子に据わった目で聞いた。
「相変わらず、可もなく不可もなく」
吐き捨てるように聡子は返した。そういえばさっきから耳につく携帯の振動音。それが自分のバックからのものであることに聡子はようやく気がついた。
バックを開け、携帯の着信履歴を見ると最初の着信から8分ほど経っていた。その間、執拗な着信が続いていた。
そこには<すぐに電話をしろ>という夫の國男からのメッセージが入っていた。
「なぜ、すぐに電話に出ない」
聡子が電話に出ると、いきなり國男の怒声が響いた。
「美菜が、、自殺した」くぐもった、途切れがちな國男の声だった。
一瞬で聡子の酔いがさめた。
☆☆☆
三宮から六甲の聡子の自宅までタクシーで飛ばしてもゆうに20分はかかった。
タクシーが聡子の家に着いた時、すでに美菜は絶命していた。まだ14歳だった。
美菜はカミソリで左手首を切っていた。風呂場には所々に血溜まりが残っていた。
「なぜ、電話に出なかった」、「君のせいだ」
國男は何度もそう言って、聡子に詰め寄った。
聡子は無意識にうちに國男からの電話を避けていた。それは自分でもよく分かっていた。
その原因は國男がもたらしたものだ。
あなたに私を非難する資格がどこにあるの。聡子は1年以上も前から浮気をしていた國男を心の底からなじった。
聡子は貿易会社に勤める國男が部下の若い女性と不倫関係にあったことを知った時、アルコールに逃げた。憂さ晴らしになるものであれば、何でもよかったが、酒が一番手っ取り早かった。
専業主婦の聡子にはこれといった趣味もなく、昼間から台所で酒をあおった。
中2という多感な年頃の娘は夫婦の不仲を深刻に悩んでいたに違いない。
美菜の自殺の原因は自分と國男にあると聡子は自身を責め立てた。
☆☆☆
美菜が亡くなって1カ月ほど、聡子は呆然として過ごした。
國男との会話もほとんどなかった。
美菜は遺書を残していなかった。
なぜ、自殺をしたのか、もはや美菜の遺品から類推するしかなかった。
美菜の遺品を整理しながら、アルバムの中にあった3人で行った箱根での記念写真に聡子は涙した。
そこにはソフトクリームを頬ばりながらピースサインをする小学6年生の美菜の姿があった。
自殺の原因を探る唯一の手がかりが美菜のつけていた日記だった。
日々の生活を記録した稚拙な内容だったが、とくに目についたのが、「キレイになりたい」というなぐり書きだった。
見開き2頁まるごと、その言葉で占められていた。
ところどころに、「なぜイジメるの」という言葉もあった。
美菜が学校でイジメにあっていた・・・まさか、そんなそぶりを美菜は家で見せたことはなかった。
聡子は酒を飲むことで現実から逃げた。
愛娘の死、夫の浮気。もともと酒は強いほうではなかったが、酒量は日毎に増えていった。
誰もそれを制止する者はいない。それをいいことに、聡子は毎日浴びるように飲んだ。
それで、経済的に困窮するということもなかった。
42歳で取締り役の國男の給料は、日々の暮らしには十分すぎるほどのものだった。
車も2台所有していた。家は國男が両親から譲り受けたものでローンの心配もない。
聡子が酒におぼれたのは、気を紛らわすような趣味がなかったことも大きい。
読書や映画といったものは、滅入った気分を払拭するのにどれほどの効果もなかった。
聡子が、1日家に閉じ篭もってアルコールに毒された頭でぼんやり考えることといえば、自殺した美菜のこと、もはや修復など考えられないほど冷えきった國男との「離婚」のことだった。
聡子より6歳年上の國男は周囲からは堅物と呼ばれるほど典型的な真面目人間だった。
会社からの信用も厚く、若くして役付きという地位を得ていた。
この人に浮気など生涯ありえないと信じていた。それだけに、國男の裏切りはショックだった。
☆☆☆
「別れよう。もう僕らはこれ以上無理だ」
おそらく、その言葉を國男もずいぶん前からいいかねていたに違いない。
むしろ、聡子には目の前の靄が晴れたような感じだった。 霞むような頭の片隅で安堵感のようなものすら得られた。
國男は聡子にあいそをつかし、2週間ほど前から外泊するようになっていた。
とうとう國男からを突き付けられた「離婚状」。
誰のせいで、こんなことになったの。全く理不尽な話だったが、聡子は承諾した。
毎日、暗い部屋の中で、酒ばかり飲んでいる聡子に鬱も忍びよっていた。
急に夜中に起きて、酒を求め、街中を彷徨することもたびたびあった。
☆☆☆
聡子にとっての唯一の心の慰めは美菜の遺品の整理だった。
タンスの中に押し込まれた美菜の洋服には、子供の頃から知っている愛娘のほのかな体臭が感じられた。 文具の一つひとつに「Mina」とカラフルなスタンプが貼られていた。
美菜の遺品で中で、思い出深いものの一つにリストバンドがあった。
美菜はチアリーディング部に入っていた。入部のお祝いにと、休日、美菜と二人でデパートに行き買い求めた物だ。
美菜はそのリストバンドをとても気にいっていた。それを左手にはめた時の、美菜の笑顔が今でも忘れられなかった。
美菜のためにもいつまでもこんな自堕落な生活を続けていてはいけない。
聡子は自責の念にかられたが、一度酒にむしばまれた身体は中々思い通りにはならなかった。
何度も断酒を試みた。
しかし、アルコールでの束の間の現実逃避という誘惑はとても抗し難かった。鏡をみると、どんよりと濁った目の、憔悴しきった幽鬼のような顔が映っていた。
☆☆☆
それから半年ほど過ぎた頃、泉田香花から電話があった。
聡子のことを案じていた。
「さとちゃん、アルコールはもともと強くないんだから、もう飲んじゃだめよ」
そんな助言も聡子にとっては、なんの足しにもならなかった。
「わかってるの。でもどうしようもないの」
聡子は睡眠薬も常用するようになっていた。
「私の知っている人が断酒会に入ってるの。さとちゃん、このままじゃダメだから、そこに行ってお酒を止めない」
香花は懇願するように言った。
聡子が香花に手を引かれるようにして断酒会の更生施設を訪れたのは、それから1週間ほど後のことだった。
聡子の自宅から2駅ほどの離れた、駅から歩いて10分ほどの閑静な所に、NPO法人の断酒施設はあった。近くには小川の流れる小さな公園があった。
そこで小さな子供たちが戯れていた。世間の喧騒とは無縁の空間だった。
施設は平屋建てで、玄関には「さいわい断酒会」と刻まれた年季の入った木彫の表札がかかっていた。施設長はみるからに人の良さそうな白いあご鬚を蓄えた、痩せた老人で、明らかにアルコール中毒からの生還者のような風情が漂っていた。
「さいわい断酒会」には、聡子のような30半ばの女性もいれば、20歳そこそこの若い男性や80近い高齢者もいた。通いでカウンセリングを受ける者もいれば、泊り込みで本格的な断酒治療を行う者もいた。
そこは世の中の縮図のようなところだった。
日々の生活に疲れ酒に溺れた者、逆に、経済力があっても社会の懊悩を抱え酒に逃げた者。誰もがみな一様に将来を悲観し、生きる目的を見い出せないでいた。
それは聡子も同じであった。人生の目標と呼べるようなものが何もなかった。
それさえあれば、断酒も容易だったかも知れないが。
最初、聡子は隣の友人の花村みずきのカラオケのエコーでそれがよく聞き取れなかった。
が、仮りにそれが自分の携帯であったとしても、いちいちバックから取り出し、確かめるのも面倒くさかった。
ちょうどサビのいい感じのところで、酔いが回っているのだ。しばらくそれに身を委ねていたかった。
聡子は大学時代の友人と久しぶりに会い、三宮のカラオケ店で酔いしれた。
「香花ちゃん、どうしたの、まだ飲みが足りないわよ」
聡子はそう言って、隣でソファに斜めにもたれかかっている泉田香花の肩を揺すった。
「今、誰かの携帯がブルブルしてなかった」
泉田はゆっくり体を起こしながら小さなあくびをもらした。
「そんなのどうでもいいじゃない、さあ、もっと飲もうよ、歌って歌って」
聡子は香花にマイクを持たせて手拍子で促した。
「もう、サトちゃんたら、しょうがないんだから」
泉田はゆっくり身を起こすと、おもむろにマイクを取り、お気に入りの歌を選曲し、情感たっぷりに歌い始めた。
「サトちゃんのところはうまくいってるの」
花村みづきが聡子に据わった目で聞いた。
「相変わらず、可もなく不可もなく」
吐き捨てるように聡子は返した。そういえばさっきから耳につく携帯の振動音。それが自分のバックからのものであることに聡子はようやく気がついた。
バックを開け、携帯の着信履歴を見ると最初の着信から8分ほど経っていた。その間、執拗な着信が続いていた。
そこには<すぐに電話をしろ>という夫の國男からのメッセージが入っていた。
「なぜ、すぐに電話に出ない」
聡子が電話に出ると、いきなり國男の怒声が響いた。
「美菜が、、自殺した」くぐもった、途切れがちな國男の声だった。
一瞬で聡子の酔いがさめた。
☆☆☆
三宮から六甲の聡子の自宅までタクシーで飛ばしてもゆうに20分はかかった。
タクシーが聡子の家に着いた時、すでに美菜は絶命していた。まだ14歳だった。
美菜はカミソリで左手首を切っていた。風呂場には所々に血溜まりが残っていた。
「なぜ、電話に出なかった」、「君のせいだ」
國男は何度もそう言って、聡子に詰め寄った。
聡子は無意識にうちに國男からの電話を避けていた。それは自分でもよく分かっていた。
その原因は國男がもたらしたものだ。
あなたに私を非難する資格がどこにあるの。聡子は1年以上も前から浮気をしていた國男を心の底からなじった。
聡子は貿易会社に勤める國男が部下の若い女性と不倫関係にあったことを知った時、アルコールに逃げた。憂さ晴らしになるものであれば、何でもよかったが、酒が一番手っ取り早かった。
専業主婦の聡子にはこれといった趣味もなく、昼間から台所で酒をあおった。
中2という多感な年頃の娘は夫婦の不仲を深刻に悩んでいたに違いない。
美菜の自殺の原因は自分と國男にあると聡子は自身を責め立てた。
☆☆☆
美菜が亡くなって1カ月ほど、聡子は呆然として過ごした。
國男との会話もほとんどなかった。
美菜は遺書を残していなかった。
なぜ、自殺をしたのか、もはや美菜の遺品から類推するしかなかった。
美菜の遺品を整理しながら、アルバムの中にあった3人で行った箱根での記念写真に聡子は涙した。
そこにはソフトクリームを頬ばりながらピースサインをする小学6年生の美菜の姿があった。
自殺の原因を探る唯一の手がかりが美菜のつけていた日記だった。
日々の生活を記録した稚拙な内容だったが、とくに目についたのが、「キレイになりたい」というなぐり書きだった。
見開き2頁まるごと、その言葉で占められていた。
ところどころに、「なぜイジメるの」という言葉もあった。
美菜が学校でイジメにあっていた・・・まさか、そんなそぶりを美菜は家で見せたことはなかった。
聡子は酒を飲むことで現実から逃げた。
愛娘の死、夫の浮気。もともと酒は強いほうではなかったが、酒量は日毎に増えていった。
誰もそれを制止する者はいない。それをいいことに、聡子は毎日浴びるように飲んだ。
それで、経済的に困窮するということもなかった。
42歳で取締り役の國男の給料は、日々の暮らしには十分すぎるほどのものだった。
車も2台所有していた。家は國男が両親から譲り受けたものでローンの心配もない。
聡子が酒におぼれたのは、気を紛らわすような趣味がなかったことも大きい。
読書や映画といったものは、滅入った気分を払拭するのにどれほどの効果もなかった。
聡子が、1日家に閉じ篭もってアルコールに毒された頭でぼんやり考えることといえば、自殺した美菜のこと、もはや修復など考えられないほど冷えきった國男との「離婚」のことだった。
聡子より6歳年上の國男は周囲からは堅物と呼ばれるほど典型的な真面目人間だった。
会社からの信用も厚く、若くして役付きという地位を得ていた。
この人に浮気など生涯ありえないと信じていた。それだけに、國男の裏切りはショックだった。
☆☆☆
「別れよう。もう僕らはこれ以上無理だ」
おそらく、その言葉を國男もずいぶん前からいいかねていたに違いない。
むしろ、聡子には目の前の靄が晴れたような感じだった。 霞むような頭の片隅で安堵感のようなものすら得られた。
國男は聡子にあいそをつかし、2週間ほど前から外泊するようになっていた。
とうとう國男からを突き付けられた「離婚状」。
誰のせいで、こんなことになったの。全く理不尽な話だったが、聡子は承諾した。
毎日、暗い部屋の中で、酒ばかり飲んでいる聡子に鬱も忍びよっていた。
急に夜中に起きて、酒を求め、街中を彷徨することもたびたびあった。
☆☆☆
聡子にとっての唯一の心の慰めは美菜の遺品の整理だった。
タンスの中に押し込まれた美菜の洋服には、子供の頃から知っている愛娘のほのかな体臭が感じられた。 文具の一つひとつに「Mina」とカラフルなスタンプが貼られていた。
美菜の遺品で中で、思い出深いものの一つにリストバンドがあった。
美菜はチアリーディング部に入っていた。入部のお祝いにと、休日、美菜と二人でデパートに行き買い求めた物だ。
美菜はそのリストバンドをとても気にいっていた。それを左手にはめた時の、美菜の笑顔が今でも忘れられなかった。
美菜のためにもいつまでもこんな自堕落な生活を続けていてはいけない。
聡子は自責の念にかられたが、一度酒にむしばまれた身体は中々思い通りにはならなかった。
何度も断酒を試みた。
しかし、アルコールでの束の間の現実逃避という誘惑はとても抗し難かった。鏡をみると、どんよりと濁った目の、憔悴しきった幽鬼のような顔が映っていた。
☆☆☆
それから半年ほど過ぎた頃、泉田香花から電話があった。
聡子のことを案じていた。
「さとちゃん、アルコールはもともと強くないんだから、もう飲んじゃだめよ」
そんな助言も聡子にとっては、なんの足しにもならなかった。
「わかってるの。でもどうしようもないの」
聡子は睡眠薬も常用するようになっていた。
「私の知っている人が断酒会に入ってるの。さとちゃん、このままじゃダメだから、そこに行ってお酒を止めない」
香花は懇願するように言った。
聡子が香花に手を引かれるようにして断酒会の更生施設を訪れたのは、それから1週間ほど後のことだった。
聡子の自宅から2駅ほどの離れた、駅から歩いて10分ほどの閑静な所に、NPO法人の断酒施設はあった。近くには小川の流れる小さな公園があった。
そこで小さな子供たちが戯れていた。世間の喧騒とは無縁の空間だった。
施設は平屋建てで、玄関には「さいわい断酒会」と刻まれた年季の入った木彫の表札がかかっていた。施設長はみるからに人の良さそうな白いあご鬚を蓄えた、痩せた老人で、明らかにアルコール中毒からの生還者のような風情が漂っていた。
「さいわい断酒会」には、聡子のような30半ばの女性もいれば、20歳そこそこの若い男性や80近い高齢者もいた。通いでカウンセリングを受ける者もいれば、泊り込みで本格的な断酒治療を行う者もいた。
そこは世の中の縮図のようなところだった。
日々の生活に疲れ酒に溺れた者、逆に、経済力があっても社会の懊悩を抱え酒に逃げた者。誰もがみな一様に将来を悲観し、生きる目的を見い出せないでいた。
それは聡子も同じであった。人生の目標と呼べるようなものが何もなかった。
それさえあれば、断酒も容易だったかも知れないが。
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幸せの脱毛士 / 結城直矢
1.ダツモウなんかしなくていい
2.まぼろしの脱毛士
3.幸せになってください・・
4.澤木聡子
5.「内なるもの」を変える
6.シンガポール
7.介入するということ
8.「交渉」の部屋
9.日本へ
10.いつか、きっと会える
11.キレイのその先にあるもの
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11.キレイのその先にあるもの
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